実帆子

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紫陽花の誘惑

分かっていたの。近づいてはいけないということは。でも、どうしようもなかった。あなたの写真をひと目見た瞬間から、ときめきを抑えられなかった。はやる気持ちを隠して、階段を駆け上がったわ。最上階の奥の部屋で、あなたは私を待っていた。初めは遠くから見ていた。近づいたら、もう二度と離れられなくなることを知っていたから。何気ないふりをして通り過ぎようとした私を、彼女が呼び止めたの。ーーよかったら、一度だけ。一度だけでは終われない。そのことを分かっていたから、私は三度、断った。さりとてその場を去ることもできず、ついに拒みきれなくなった私は、あなたの広げた腕の中に包まれてしまった。ーーああ、やっぱり。私はため息をついた。逃れられない運命が、稲光のように私を貫く。あなたを知らなかった頃の私には、もう戻れないーー   ♪「ああ!もう!絶対こうなるって分かっていたから、試着したくなかったんです。もうこの浴衣を残して帰るなんて考えられない。これ、頂きます。帯?もちろんセットで!!」「はい!ありがとうございます。お客様、とってもよくお似合いですよ」…というわけで、浴衣、新調しちゃいました♡夏の呉服売り場、誘惑が多すぎて本当にキケンです!

お茶室に来ると、なぜ深く息が吸えるようになるんだろう

いくつかのすれ違いが重なり、空は雨模様。原稿も思うように進まない「やれやれ」な夕方。でも、こんな時だからこそ、お茶には行くんだ。しじら織の着物を着て、博多帯をきゅっと結ぶと、それだけでもう、3%くらい元気になっている。着物、頭がぼーっとしていても、手が勝手に動いて着られるようになったな、いつの間にか。   ♪6月最後のお稽古、お菓子は水無月。そうか、夏越の祓だ。あまり食欲がなかったのだけれど、小豆の代わりに枇杷を載せた変わり水無月だったので、つるりと食べてしまった。私、季節も周りの景色も見えなくなって、自分のことでいっぱいいっぱいだったな。と、先生がさりげなく出してくれるお菓子ひとつに気づかされてしまう。いつも流れるように美しく、それでいて緊張感のあるお点前をなさる先輩が、熱い抹茶を点ててくださる。「お菓子が大きい時には、抹茶もお湯もたっぷりとね」と先生が仰る。ああ、そうか。私、手順を間違えずにお茶を点てることにばかり気を取られて、美味しく飲んでもらうという一番大切なことを忘れていた。お茶室にいる間は、外の世界で起こるいろいろなことを、どれだけ頭から追い出せるかが勝負。すべて忘れて、ただただ一杯のお茶をおいしく点てることに集中する。集中の中でも、できる限り肩の力を抜いて、楽しむ。   ♪先生が「いいわよ」と言ってくださったので、半幅帯を持っていき、文庫結びを教えて頂いた。先生がすすす…と結ぶとかわいい蝶になるのに、私が再現しようとすると、不格好な蛾みたいです。と言って、先輩たちとみんなで笑い合う。――あ、私、笑ってる。と、笑いながら気づく。――今日、たぶん、笑うのこれが初めて。   ♪ままならぬ時は、ままならないままでいい。笑いながら、そんなことを思った。無理に、すべてをさらさら流そうとするのではなく。ままならない私でも、すべてをいったん棚に上げて、心を込めて、一生けんめい一杯のお茶に集中することができる。人生はそれだけで、もう十分ではないか。   ♪お茶室を出たら、雨が降り出していた。それなのに、こんなに心が軽くなったのは、きっと、帯の結び目が変わったからというだけではない気がするのだ。