ネガティブな感情は「資源」になる
生まれる前から心配性で、1年中、ありとあらゆることを心配しながら生きている。
鍵をかけたか、ガスの元栓を締めたかが気になり、二度三度と家に戻るのはいつものこと。
天変地異から交通事故、明日の天気まで、気がかりの種は数限りない。
ちょっと友達とお茶を飲みに行くだけで、1泊旅行に行くような大荷物になってしまうのは「もし、急に雨が降ったら」「もし、急に咳が出てのど飴が必要になったら」「もし、出先で読む本がなくなって退屈したら困るので予備の本をもう1冊」などと出かける直前に心配性の虫が騒ぐためである。
ここまでくると、もはや心配性も趣味の領域である。
心配しすぎる性格のおかげで、遅刻したり、締め切りに遅れたりすることが少ないのは、メリットでもある。
ほどほどの距離感を保ちつつ心配性ライフを満喫していた私だが、昨年から突如、心配性業界に現れた新種のウイルスには、さすがに閉口している。
だいいち、姿が見えない。
実際のところ、どれくらい危険なのかも判然としない。
かてて加えて、いつ心配がなくなるのかまったくわからない。
心配性とは長い付き合いで、わりと仲良くやってきたほうだと思うのだが、さすがにこれは心配の度が過ぎる。
そんなわけで昨年の春、私はブランデーを落とした熱い紅茶を入れて心配性氏を召喚し、夜更けに緊急会議を開くことにした。
私「このところ、調子どう?」
心配性「いやあ、40年間、ありとあらゆることを心配し続けてきたけど、今回の件には参ったね。心配しても、心配してもきりがない。そもそも心配っていうのは、心配することで困った事態や危険を回避できるからこそ意味があるんで、目的もなくただひたすら心配し続けるっていうのは、僕等の流儀じゃない」
紅茶を一口すすり、心配性氏はため息をついた。
「わかるよ。あなたが働きづめだと、正直、私も気持ちが張りつめてつらい。どうだろう。そろそろ、ポジティブさんに来てもらうっていうのは」
心配性氏は眉をひそめた。
「あいつ、嫌いなんだよ。世の中には心配事なんて何もありませんみたいな顔して。何だっけ、ポジティブの連れ。検索エンジンの会社が研修に取り入れたっていう、舌噛みそうな名前の奴」
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